十一月四日の昼過ぎ。 魔道士にとっての聖地であるウァティカヌス聖皇国へとカイトたちを運ぶ大型客船は、航行計画の通りに十一月四日の昼過ぎ、ウァティカヌス聖皇国で唯一大型の船舶が停泊できるスペツィア港へ入港した。 ウァティカヌス聖皇国は「世界最小の国」として知られ、その国土面積はカイトが生活するミズガルズ王国の王都プログレの二百分の一ほどしかないが、魔道士の聖地として永世中立国の立場を貫き独自の発展を遂げた国だった。 歴史的な建造物や景勝地にも恵まれ、温暖で平和な聖皇国は観光立国を成した国でもあり、多くの客船が停泊する聖皇国で唯一の港は賑わいを見せていた。 久々に踏む地面が与える安心感も合わさり、客船を降りたカイトたちの足取りは軽かった。 カイトたちはまず聖皇国内に設置されているミズガルズ王国の公使館へと移動した。 腹だけが肥えた中年太りの公使は、到着したカイトたちを歓迎して深々と頭を下げた。「公使を務めております、スペイドと申します。長旅お疲れ様でございました。聖皇国に滞在の間の諸用は何なりと私へお申し付けください」「お世話になります」 カイトが頭を下げて応じると、スペイドは恐縮の表情を浮かべながら今後の予定を口にした。「聖皇陛下への謁見は、明後日の午後を予定しております。それまでは、どうぞゆっくりとおくつろぎください」「はい。そうさせてもらいます」 カイトたちはスペイドに案内され、ゆっくり歩いても公使館から十五分ほどの高台にあるホテルへと移動した。 客室まで荷物を運び入れた客船の乗組員に礼を言いながらチップを渡したカイトは、客室の窓を開けて聖皇国の街並みを眺めた。 港町特有の密集した建物はどれも海の青さと調和がとれていた。 活気がある美しい港町だとあらためて感じたカイトが鼻唄まじりに荷ほどきをしていると、程なくして客室のドアをノックする音がした。 カイトがドアを開けると、やや緊張した様子のスペイドが立っていた。「ロザリオ魔道士団の第三席次であられるアルトゥーラ卿が、閣下に面会を求めてこのホテルを訪れております」 スペイドの口からエルヴァの息女であるアルトゥーラの名を聞いたカイトは、スペイドが緊張している理由を察した。「分かりました……アルトゥーラ卿はどちらに?」「ロビーでお待ちです」「では、セリカ卿とステラ卿に声をかけて
明後日の昼過ぎ。 カイトとその護衛役であるセリカとステラ、事務方として随行するスペイドの四人は聖皇の宮殿へと向かう馬車に乗り込んだ。 聖皇の宮殿はカイトたちが滞在するホテルのある高台よりも少し高い丘陵にあり、テルスで最大級の教会建築であるサン・フィデス大聖堂と隣接していた。 快晴ということもあって世界的に名所として知られるサン・フィデス大聖堂は多くの巡礼者や観光客でごった返していた。 大聖堂の賑わいとは対照的に、隣接する聖皇の宮殿は静寂に包まれていた。 宮殿の車寄せに乗り入れた馬車からカイトたちが降りると、緋色の祭服を着た聖皇国の枢機卿が出迎えた。 枢機卿に先導されてカイトたちは宮殿の奥に進んだ。 謁見の間の細長く四メートルほどの高さがある扉の前に到着すると、スペイドと枢機卿は扉の前で待機した。 白で統一された天井の高い謁見の間には、アルトゥーラと長身の女性の二人だけが待機いた。 長身の女性は赤銅色の長い髪を結い上げており、アルトゥーラと同じロザリオ魔道士団の軍服を着ていた。「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」 長身の女性がやわらかく響く声でカイトに呼び掛けた。 カイトが女性の声に従って謁見の間の奥へと足を進めると、長身の女性はカイトに向かって深く頭を下げた。 頭を下げて応じたカイトに、顔を上げた長身の女性は柔和に微笑んでみせた。「ロザリオ魔道士団の次席を預かる、クーリア・マクラーレンと申します。貴国でお世話になっているエルヴァの妻です」 やわらかな声と気品を併せ持つクーリアに対面したカイトは、アルトゥーラの母親とは思えない若さを保つクーリアの容姿に驚いたが、それを顔には出さないように努めた。「トワゾンドール魔道士団の首席魔道士を務める、カイト・アナンと申します」「聖皇陛下は直にまいります。少々お待ちください」 微笑みを絶やさないクーリアは、艶やかで成熟した魅力を放つ女性だった。 カイトが「はい」と短く返事を返したタイミングで、純白のローブモンタントを着た少女が謁見の間に入ってきた。 小柄な少女はつかつかと一直線に奥へと進み、一段高くなっている最奥に設置された豪奢で大きな椅子にちょこんと腰掛けた。「朕がフィデスである。遠路、大儀であった」 代替わりから数年ほどしか経っていない現在の聖皇は若い女性であるとは聞いてい
魔道士への位階の叙位と称号の授与に関する一切の事務を「聖皇から委任されている」という形をもって取り仕切るウァティカヌス聖皇国にあって、報道機関への対応を一任されているクーリアの「祝賀の主役であるカイト卿に疲れた状態で晩餐会に参席いただくのは申し訳ない」という配慮から、新聞社を始めとする報道機関の取材を回避できたカイトは、一旦ホテルへ戻って一息つく余裕を得た。 カイトとその護衛役であるセリカとステラ、事務方として随行する公使のスペイドが連れ立って宿泊するホテルへ戻ると、ホテルのロビーにカイトの戻りを待つ女性魔道士の姿があった。 金髪のショートボブで鼻梁はすっきりと通り、切れ長の目には濃い碧眼が光る女性は、漆黒の地に群青の縁取りがなされたラブリュス魔道士団の軍服を身に纏っていた。 すらりとしたスリムな体型で背も高い女性魔道士は、ホテルのエントランスからロビーへとカイトたちが入るのを視認するやすっくと立ち上がり、カイトに向かって深々と頭を下げた。「お帰りを、お待ちしておりました」 女性魔道士の落ち着いた低い声がカイトの耳に届く。 セリカとステラが身構える気配を背後に感じながらも、カイトは緊張を隠しつつ女性魔道士へ歩み寄った。「どちら様でしょうか」 女性魔道士の前まで近寄って問い掛けるカイトに対し、女性魔道士は品を感じさせる微笑を浮かべながら答えた。「セナート帝国のラブリュス魔道士団で第六席次を預かるシルビア・ゲルツと申します」「はじめまして。カイト・アナンです。それで、シルビア卿……俺をお待ちいただいていたようですが、どういったご用向きでしょうか?」 敢えて肩書きは添えずにカイトが質問を返すと、すかさずシルビアはなめらかな口調で答えた。「本日はカイト卿の位階の叙位と称号の授与を言祝ぎたく、突然の失礼を押して参上いたしました」「そうですか……ご足労いただき、ありがとうございます」 ほんの二年前に矛を交えた敵国であり、国交が戻った今も最も警戒すべき大陸の覇権国家セナート帝国。戦場においてはその大国の全権代理人となる筆頭魔道士団の第六席次が、急に目の前に現れたことへの警戒は解かずに、カイトは努めて穏便な姿勢で応じた。 隠しきれない緊張が顔に出ているカイトとは対照的に、落ち着き払った面持ちのシルビアは、カイトに向かって軽くうなずいてから自身の傍ら
その晩に催されたカイトの叙位と授与を祝賀する晩餐会の席で、カイトとアルトゥーラは約束した通りにお互いの身の上話に花を咲かせた。 当初の予定通りカイトたちはウァティカヌス聖皇国に一週間滞在した。 カイトは滞在中に、クーリアが選別した各国の新聞社に属する記者の数人と対面して取材に応じた。 太魔範士という称号への反響の大きさは、カイトの想定をはるかに越えるものだった。 各紙の紙面には『ミズガルズ王国の首席魔道士が二人目の太魔範士に』『聖魔道士にして太魔範士であるカイト卿が今後の世界情勢に与える影響とは』『覇王の次に新たな時代の旗手となるのは聖人か』といった見出しが踊った。 ミズガルズ王国への帰路も往路と同じく、白い髭がトレードマークのシルバラードが船長を務める大型の客船だった。 快晴に恵まれ真昼の陽射しを照り返す海面が眩しい、十一月としては暖かなスペツィア港には、カイトを見送るために足を運んだアルトゥーラの姿があった。「カイト卿。今回は短い滞在でしたが、また必ずお目にかかりましょう」 快活な笑みを浮かべるアルトゥーラが差し出した右手を、カイトは握り返して長めの握手を交わした。「はい。その日を楽しみにしてます」「なぜか、再会の日はそう遠くないような気がします。この国とミズガルズは遠いのに不思議ですが」「その予感が当たることを願うことにします」 カイトの言葉にアルトゥーラがくすりと笑う。「カイト卿からは下心みたいなものを感じないのも不思議です」「そうですか?」「ええ、わたしは自他共に認める男嫌いですが、カイト卿にはなぜか嫌悪を感じません」「そうですか。それは、ありがとうございます」「太魔範士であるカイト卿をこの世界は放ってはおかないでしょう。その一挙手一投足に注目が集まることになります。疲れたらウァティカヌスへいらしてください。小さい国ですがお連れしたい店はまだまだあります」「それは楽しみです。両手を手土産でいっぱいにして、また来ます」 ニカッと笑ったカイトが両手に荷物を持つジェスチャーを見せると、アルトゥーラは打ち解けた笑みを浮かべた。 カイトたちを乗せた客船はほぼ予定通りの航海を終えて、十一月二十五日の昼過ぎにミズガルズ王国の王都プログレに到着した。 王都の港には数日前からカイトを出迎えるために日参していたストーリアの姿があっ
セルシオに先導されて移動した執務室へと入室したカイトたち三人は、セルシオにすすめられるままソファへ腰掛けた。 重厚なデスクの上にあった一通の書簡をセルシオは手に取ると「セナート帝国からの招待状です」と言い添えてカイトに手渡した。「セナート帝国? 招待状、ですか……?」 オウム返しに仮想敵国の名を口にしながら、カイトは書簡に目を落とした。「カイト卿の聖魔道士および太魔範士、その授与を祝賀するセナート帝国主催の晩餐会への招待状です」 カイトは書簡の文面にざっと目を通した。「これは……赴かない訳にはいきませんね……」 顔を上げたカイトが感想を口にすると、セルシオは首肯を返した。「左様です。セナート帝国と我がミズガルズ王国は現在、正式に国交を回復しております。読んでいただいた通り、シーマ皇帝の署名が入った正式な招待状です。これは、断れません」「……それにしても、急ですね」「ええ、さすがと言うべきでしょうか……セナート帝国の動きは常に早く、その速度で大陸の覇権を手にするまで勢力を拡げた国です。併せて、新たな動きも確認しております。先月にはピャスト共和国と、そして今月に入ってはロムニア王国とセナート帝国は停戦協定を結んでおります。オルハン帝国とも水面下で交渉中なのは確実でしょう。近く、西方戦線の緊張が一旦とはいえ解ける形となります」「それは……ミズガルズにとって吉報なんでしょうか……」 カイトの不安を隠さない問いに対し、セルシオは一呼吸置いてから答えた。「実際の距離も形成されてからの経過も長い西方戦線に初めてとなる停戦の動き、となれば次に緊張を強いられるのは、南のヒンドゥスターン帝国。そして、東南エイジアに勢力を伸ばしたブリタンニアの統治領となるでしょう……今は見守るしかありません。現在の情勢下にあってミズガルズ王国としては、静観の一手しか打ちようがありません」「そうですね……では、俺は招待に応じてセナートに赴くとします」「はい。お願いいたします」 決意を口にしたカイトへ軽く頭を下げたセルシオが視線をセリカとステラへ移す。「セリカ卿、ステラ卿。引き続きセナート帝国へ赴くカイト卿の護衛の任を引き受けていただきたい」「承知しました」 セリカが即答すると、ステラは質問を返した。「日程はどうなりますか」「招待状に添えられたもう一通の書簡によ
ウァティカヌス聖皇国で太魔範士の称号を授与されたカイトが、ミズガルズ王国へと帰国した二日後の水曜日。 師走を目の前にする十一月二十七日の昼過ぎ、王都プログレの港にセナート帝国の威光を示すように黒光りする装甲板で固められた大型汽船が入港した。 乾いた北風が冬の匂いを運ぶ中、シルビアがミズガルズ王国の地に降り立つ。 年末の賑やかな港にあっても、シルビアが纏う漆黒のラブリュス魔道士団の軍服は異様な迫力を有しており衆目を集めた。 忌避を含んだ視線を集めるシルビアには、人々の視線を気にする様子はまるで無かった。 シルビアを出迎えるために港へと赴いたのは、アルテッツァとセリカの二人だった。 隠せない警戒が表情に垣間見えるセリカとは対照的に、シルビアとアルテッツァは微笑を浮かべて対面した。「お待ちしておりました。遠路のお務め、誠にお疲れ様です」 朗らかな微笑を崩さずに右手を差し出したアルテッツァに対して、シルビアも余裕の笑みを浮かべたまま握手に応じた。「これはアルテッツァ卿。高名な卿に、わざわざ出迎えいただくとは光栄です」 初対面でも当然のように顔と名前が一致するだけでなく余裕を持って対応をするシルビアに対し、アルテッツァは警戒を強めたが表情に出すようなことはなかった。「滞在中の用向きは、遠慮なく私に仰ってください」「それは恐れ入ります。明後日には出立する身ですが、アルテッツァ卿のご厚意に甘えて、お世話になります」「急ぎの船旅でお疲れでしょう。ホテルへご案内いたします」「ありがとうございます」 微笑を浮かべながらも一切の隙がないシルビアの所作は、魔道士としての実力を暗に示すものだった。 それは並んで前を行くシルビアとアルテッツァの後に続いて歩くセリカにとっては、屈辱的な実力の差を痛感させるものだった。 シルビアはアルテッツァと同等の魔教士の称号を持ち、自分はその一つ下の称号となる魔錬士であるという事実を前にしたセリカは、否応なく襲ってくる劣等感を払いきれなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ シルビアがミズガルズ王国へ到着した頃、カイトは自室で次の行き先となるセナート帝国行きに向けた旅の支度をしていた。「お帰りになったばかりですのに……」 カイトの荷造りを手伝うストーリアが、何度目かになる言葉を口にする。「だよね」 カイトも何度目かになる
その日の夕刻にはシルビアを歓迎するという趣旨で少人数に限った晩餐の席が、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオが自ら手配して設けられた。 王族や御三家と呼ばれる有力な貴族、国内外の流通を掌握する大商人などを顧客に持つミズガルズ王国内でも指折りの高級レストランが晩餐の場となった。 総座席数が百五十を越える規模でもミズガルズ王国内屈指のレストランにあって、限られた上得意のみが通される最奥の大きな個室が会場となった晩餐には主催のセルシオと主賓であるシルビアの他に、シルビアの案内役を自ら買って出たアルテッツァとパートナーであるセリカ、セルシオの計らいで招かれたステラ、そしてセナート帝国が主催する祝賀会への案内役としてミズガルズ王国を訪れたシルビアにとっての主たる対象となる首席魔道であるカイトが出席した。 シルビアを歓迎する短い挨拶を述べたセルシオが乾杯の音頭を取り、六人だけが参席する静かな晩餐は始まった。 微かに張りつめた空気の中にあっても、シルビアは余裕を感じさせる微笑みを絶やさなかった。 微笑を操るシルビアの様子に触れたカイトは、覇権国家の代理人としての自覚と自信をシルビアから感じ取った。 三杯目となる赤ワインが注がれたワイングラスを傾けてから、音を立てずにワイングラスをテーブルに置いたシルビアが口を開いた。「良い機会かと思いますので、帝都での祝賀会への招待に応じてくださったゲストについて手短にお伝えしておきましょう」 提案する口調で口にしたシルビアの言葉に対し、真っ先に反応したのはセルシオだった。「それは、ぜひ拝聴したく思います」 セルシオが短く促すのに応じて、シルビアはゆったりとした所作でうなずいてみせてから、カイトを主賓とする祝賀会に参列する魔道士の名を挙げ始めた。「此度の祝賀会に際して、王侯貴族はもとより政治家や資産家といった魔道士以外の有力者は一人も招待しておりません。魔道士のみを招待した祝賀会の席となります。ブリタンニア連合王国メーソンリー魔道士団の首席魔道士であられるヴァルキュリャ・ニューウェイ卿。ゲルマニア帝国アイギス魔道士団の首席魔道士であられるインテンサ・グンペルト卿。アメリクス合衆国ワキンヤン魔道士団の首席魔道士であられるトゥアタラ・シェルビー卿。ビタリ王国トリアイナ魔道士団の首席魔道士であられるウアイラ・ディナスティア卿。ガ
祝賀晩餐会を主催するセナート帝国から主賓であるカイトの案内役としてミズガルズ王国を訪れたシルビアの滞在は、当初の予定通り二泊三日の短さで終わり、十一月二十九日の正午にはカイトとその護衛役を務めるセリカとステラ、そして案内役であるシルビアを乗せたセナート帝国籍の黒光りする汽船は、プログレの港からヴォストークへ向けて出航した。 客船よりも軍艦に近い装甲板で固められた汽船は、セナート帝国が覇権を握った大陸とミズガルズ王国の領土として国を形作る列島との間にある縁海を予定通りに就航し、十一月三十一日の昼過ぎにはヴォストークの港へと入港した。 港湾都市であるヴォストークは、大陸の東端までを領土としたセナート帝国にとっての「極東の玄関口」となったことで急速に発展した都市だった。 地形に恵まれた歴史のある良港と、セナート帝国がその威信をかけて敷設した世界初となる大陸横断鉄道の「東方の始発駅」を擁する交通の要衝であるヴォストークの街は、足早に行き交う人々の活気に満ちていた。 セナート帝国というミズガルズ王国にとって最も警戒すべき仮想敵国でありながら最大の交易国でもある国に降り立ったカイトは「この大陸に父さんがいるのか」という感慨を覚えながら街並みを眺めた。 師走を前にしたヴォストークの街は、これまでにカイトが見た王都プログレやウァティカヌス聖皇国といった異世界の街よりも密度の高い賑わいをみせていた。「活気のある街ですね」 カイトが素直な感想を口にすると、街を案内するシルビアは微笑を浮かべて答えた。「このヴォストークは積極的に開発を進めるセナート帝国の中でも、勢いのある街の代表格です。お気に召しましたか?」「ええ、寒いですが、それに負けない熱気を感じます」 カイトの感想を聞いたシルビアは満更でもないといった表情を隠さなかった。 ヴォストークの中心地となっている大陸横断鉄道の駅前にあるホテルで一泊したカイトら一行は、朝の内にハルバ行きの汽車に乗り込んだ。 異世界テルスでは最新の移動手段である蒸気機関車は、特有の音と匂いを発しながら力強く疾走した。 大陸を疾走する車窓からの眺めは、カイトにとって旅の高揚感を伴うものだった。 夜半には目的地であるハルバに到着したカイトら一行は、駅から最寄りのホテルに宿泊すると、翌朝にはチタ行きの汽車に乗り込んだ。 カイトが想
マイラントへ通ずる街道から市街地へと入る境に関所のように設置された番所から、アクーラの声に驚き慌てている様を露骨に素振りで表す四人の男が飛び出した。 他の三人が揃いの作業着にも見える制服を着ている中で、唯一ビタリ王国の一般の軍隊に所属する下士官へ支給される軍服を着た男は急ぐ様子を見せながらも、番所に繋がれている馬に跨がり街へと入っていった。 数分後、馬を駆る二人の魔道士が番所に到着した。 馬から降りたトリアイナ魔道士団の軍服を纏う二人の男性魔道士の、深紅の地に銀糸で刺繍された三叉槍のエンブレムの下に標された数字は、ⅡとⅨ。「おっ……やっと、お出ましですかあ」 筆頭魔道士団の席次を持つ執行の対象が到着したことを、目視で確認したアクーラがにやりと余裕の笑みを浮かべる。 次席を示すⅡのナンバリングを背負うの男は、アクーラへ向かって真っ直ぐに歩を進めながら口を開いた。「トリアイナ魔道士団のゾンダ・ファンジオである! ブリタンニアが何用か!」 ゾンダは覇気に満ちる四十五歳で、後ろに結わえた長い赤髪が歴戦の自負に彩りを添えていた。「卿らを率いたウアイラ卿の王位簒奪を、聖皇陛下は断罪なされた! 我らの首席魔道士たるヴァルキュリャ卿が聖皇陛下の意思を代行する刑の執行人として指名された!」 アクーラが自分に向かって躊躇なく足を進めるゾンダを見据えながら口上を述べる。 口上を聞いたゾンダは表情を動かすことなく、アクーラの手前五メートルほどの位置でピタリと立ち止まった。 第九席次の男もゾンダに付き従うように後ろで立ち止まる。「そうか……私の相手は、最強の魔道士団となったか……」 微かに眉根を寄せて事態の把握を伝えるように静かな口調で応じたゾンダに対し、アクーラが問い掛ける。「降伏なされるか?」 ゾンダへ向けたアクーラの問いに答えたのは、第九席次の男だった。「降伏などするわけないだろ!」 若い血気を抑える様子もなく感情のままに言葉とした第九席次の男を、ゾンダはすぐさまたしなめた。「控えよ、カリフ卿」「ですがゾンダ卿……!」「控えよ」 カリフはアクーラに対する敵意を剥き出しにしながらも、ゾンダの言葉に従って口をつぐんだ。 アクーラに対してわずかに頭を下げたゾンダが、返答する落ち着いたバリトンの声に悔恨の音を含ませる。「筆頭魔道士団に席を置く
フエルシナへ赴いたインテンサの一行が圧倒的な力量差をもって、聖皇の意思を代行する刑の執行人としての任を完遂した頃、ヴァルキュリャの一行も目的地であるマイラントに到着しようとしていた。 ビタリ王国で第四の都市であるマイラント。 天然の良港を持つマイラントは、海路と陸路を繋ぐ交通の要衝として古くから発展してきた街だった。 ガリア共和国に近いこともあり多様な芸術を育んできた街としても知られるマイラントの、手前一キロメートルほどの地点で二輛の幌馬車が停まった。 真っ先に馬車から降りたのは、刑の執行人として聖皇から指名を受けた首席魔道士ヴァルキュリャだった。 続いて同じ馬車から、長い金髪を三つ編みにした小柄な女性が静かに降りる。 小柄な女性はヴァルキュリャと同じ漆黒の地に山吹色で縁取りがなされたメーソンリー魔道士団の軍服を着ていた。同色のマントには山吹色の糸で刺繍されたメーソンリー魔道士団のシンボルであるコンパスのエンブレム。そのコンパスの下にはⅥの数字が標されている。「大丈夫? エリーゼ卿」 心配を隠さず顔に出したヴァルキュリャが、筆頭魔道士団としては異例の二十六名からなる「世界で最大にして最強の魔道士団」と称されるメーソンリー魔道士団で第六席次を担うエリーゼに声をかける。「大丈夫です。メーソンリーの魔道士が乗り物に弱いなんて情けないですよね」「そんなことないよ。なんだかゴメンね」「どうしてヴァルキュリャ卿が謝るんですか」 エリーゼはくすりと笑ってみせた。 セナート帝国が最大の大陸を掌握する覇権国家となった今も、陸よりも遙かに広い海洋を押さえる覇権国家として在り続けるブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団として、席次の決定にも政治が絡んでくるメーソンリー魔道士団の首席魔道士となったヴァルキュリャ。 十七歳の若さで首席魔道士となったヴァルキュリャの「できるだけ近い席次に就いて欲しい」という希望を聞き入れ、本来であれば望んでいない政治的な策謀が渦巻く席次争いに身を投じ、魔教士としては最高位となる第六席次に就いたエリーゼはヴァルキュリャにとって大切な存在だった。「いやさあ……こんな任務に付き合わせちゃってるから、ね」「そう、任務です。だから謝らないでください」 やわらかく微笑むエリーゼに対して「……うん。そうだね」とヴァルキュリャはうなずきながら
インテンサの指令を遂行したクワトロが、速攻でボーラを処理した現場へと駆け付けたイオタは亡き骸となったボーラを見るや怒りを露わにした。「あいつらか……!」 犬歯を剥き出しにして怒りを沸騰させるイオタが、五百メートルほど離れた街道に仁王立ちするアイギス魔道士団の四人を睨み付ける。「へ、へい……そうです。やつらが、ボーラ様を……」 ボーラとクワトロの戦闘を目撃した番人が、止まない恐怖で震える声のままイオタに答えた。 イオタは臨界に達した怒りを爆発させた。「いい女を殺す奴に生きてる価値はねえ! 皆殺しだっ! ムスペル!!」 イオタはその場で怒号とともに召喚獣の名を詠唱した。 直径十メートルほどの巨大な紅く光る魔法陣が、イオタの咆哮じみた召喚に応じて前方に現れる。 魔法陣から体高十五メートルにも及ぶ巨人ムスペルが現出する。 赤黒い肌を露にした裸体のムスペルは、はち切れんばかりに筋肉を隆起させていた。 ムスペルの全身は自ら発する炎で覆われている。 正しく「炎の巨人」そのものであるムスペルの威容を前にした番人は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。 ムスペルを見据えたインテンサは、感情を起伏させることなく一歩前に足を進めた。「聖皇国の情報は確かだったようだ。あの風体でムスペルを召喚できるならイオタで間違いないだろう。冥土へのせめてもの手向けに、格の違いというものを最期に見せてやるとしよう……ミドガルズオルム!」 インテンサが土の属性に於いて最上位とされる召喚竜の名を詠唱する。 直径二十メートルほどの巨大な緑色に発光する魔法陣が、インテンサの詠唱に呼応して浮かび上がる。 魔法陣から二百メートルを優に超える体長を有する大蛇が、その威容を現出させる。 灰褐色の鎧の如き鱗に覆われたミドガルズオルムは、ムスペルを見下すように鎌首をもたげた。 あまりに巨大な異形の召喚竜を目にしてしまった番人は、自分が失禁していることにさえ気付けずただ放心した。「ちっ……!」 ミドガルズオルムを召喚する魔道士が相手と知ったイオタは、舌打ちとともに思考を取り戻した。 各々の属性で最上位とされる召喚竜であるテュポーエウスやヴリトラと並び称されるミドガルズオルムを実際に目の当たりにするのは、筆頭魔道士団でエースナンバーを背負うイオタにとっても初めてのことだった。「くそ
番所から深紅の軍服を着た女性が出てくるのを目視で確認したインテンサは、感情を乗せない静かな口調でクワトロに声をかけた。「聖皇国の情報は確かなようだ。ボーラで間違いないだろう。イオタが到着する前に済ませるとしよう。この戦闘は聖下の下された断罪を代行する刑の執行であり、戦場の儀礼は無視して構わん。卿の得意とする速攻で片付けてしまって何ら問題は無い」 インテンサの指示に「御意」とだけ短く応えたクワトロは、続く呼吸で魔法の詠唱を済ませた。「クッレレ・ウェンティー!」 速さで優位に立つのが定石である気の属性魔法を行使するクワトロが、風の力を利用して加速する初手の定番であるクッレレ・ウェンティーを用いて高速で駆け出す。 前傾で駆けた姿勢のままクワトロは召喚魔法を行使した。「ウムダブルチュ!」 クワトロが召喚獣の名を詠唱する。二つの魔法を同時に行使するという高等技術を難無く行ってみせるクワトロに呼応するように、ライオンの体に鷲の頭と翼を持った召喚獣が、金色に輝く魔法陣から現出する。 体長が四メートルに達するウムダブルチュは、堂々たる巨躯を誇示するように咆哮を上げた。「いいねえ、強引な男は嫌いじゃないよ」 不敵な笑みを浮かべたボーラは、その場で召喚魔法を行使した。「ラクタパクシャ!」 ボーラが詠唱した召喚獣の名に呼応して現れた紅く光る魔法陣から、人間の胴体に鷲の頭と翼を持つ召喚獣が現れる。その体長は二メートルほどだが、羽ばたく翼の翼長は四メートルにも届かんとする大きさを誇った。 全身から炎を発するラクタパクシャが、紅蓮の翼を強く羽ばたかせる。 ラクタパクシャの羽ばたきは数十本の炎の矢を空中に作り出した。 流れるような動作で、ラクタパクシャが紅蓮の翼を力強く前へと突き出す。 数十本の炎の矢が、一斉にウムダブルチュへと襲いかかる。 ウムダブルチュは素速く上空に舞い、炎の矢を全て躱してみせた。 上空から高速で急降下したウムダブルチュが、ラクタパクシャに体当たりを喰らわす。 その圧倒的な質量差によってラクタパクシャは吹き飛ばされた。「くそっ」 ボーラがウムダブルチュに向けて両手を突き出し、援護射撃となる魔法を詠唱しようとした、その刹那。眼前には既にクワトロの姿があった。「グラディウス・ウェンティー!」 クワトロの素速い詠唱と同時に長剣の如き
「それでは、各々任務を完遂した後に合流するということで。私はこれで失礼を」 英魔範士である自分よりも上位の称号を持つ世界で三人しか存在しない内の一人だとしても、圧倒的な最強として君臨する太聖エルヴァや覇権国家を築くに至った皇帝シーマとは違い、現時点では何らの功績を挙げた訳でもない未知数のカイトと、最も警戒すべき存在として認識している自分以外の英魔範士であるヴァルキュリャ。 この二人と馴れ合う必要はなく、下手に関係を築くことは避けるべきだと判断しているインテンサは、静かに退席の意思を口にしてから立ち上がると真っ先に円卓を離れて退室した。「では、俺も……」 インテンサにつられて立ち上がったカイトに、ヴァルキュリャが声をかけた。「カイト卿。卿は今回が初めての実戦ですよね」「あ、はい。そうです」「卿は無属性魔法を行使する太魔範士にして聖魔道士、圧倒的な強者です。ですが、初陣には魔物が潜んでいます。命を奪うという行為に躊躇すれば魔物は容赦なく襲いかかってきます。覚悟は今のうちに固めておいてください」 命を奪う。ヴァルキュリャが明言した強い言葉に、表情を引き締めたカイトは首肯を返した。「分かりました。そうします」 カイトの素直な返答を聞いたヴァルキュリャは表情を緩め、穏やかな笑みを浮かべてみせた。 セナート帝国が勢力を拡大する中で徹底的な実力主義をもって猛者を集結させたラブリュス魔道士団が存在する今も、最強の魔道士団と称され続けるメーソンリー魔道士団の首席魔道士が浮かべる可憐な笑みに接したカイトは赤面した。 「それにしても、思ったより早い再会でしたね。この任務が終わったら、また二人でお酒でも」「はい、ぜひ」 ヴァルキュリャの誘いに対し、カイトは嬉しさを隠さずに二つ返事で応じた。 翌日の朝にはインテンサが率いるアイギス魔道士団の四名と、ヴァルキュリャが率いるメーソンリー魔道士団の四名が聖皇国の用意した幌馬車に乗り込み、それぞれの目的地へ向けて出立した。 さらに日付を跨ぎ月の変わった二月一日の朝には、最も目的地に近いカイトらトワゾンドール魔道士団の四名も、聖皇国が用意した二台の幌馬車に分乗してメディオラヌムへ向けて出立した。 同日の昼前。 数千年の歴史を刻む古都であり観光地として知られる、ビタリ王国で第三の都市であるフエルシナの空は今にも雨を
カイトが筆頭魔道士団に属する魔道士三名とともにウァティカヌス聖皇国に到着したことで、聖皇フィデスが指名した三名の執行人が揃ったことを受け、翌日の昼過ぎには最初の協議が持たれた。 聖皇の宮殿内で行われた協議には各国の首席魔道士であるヴァルキュリャとインテンサ、そしてカイトが参加し、ウァティカヌス聖皇国の筆頭魔道士団・ロザリオ魔道士団で次席を務めるクーリアが、司会を兼ねたオブザーバーとして協議を進行した。 現状の確認から入るクーリアの穏やかだが通る声で、三カ国を代表する首席魔道士が顔を合わせる協議は始まった。「まずビタリ王国の現況からですが……首席魔道士であったウアイラが率いるトリアイナ魔道士団は、十二月三十一日に王都ロームルスでクーデターを起こし、国王とともにソフィア王女殿下を除く王族を殺害。その翌々日にはウアイラが国王に即位したことを国内外に宣言。王位の簒奪に際し、ウアイラに抵抗する姿勢をみせたビタリ国内の貴族は少なく、現在までに南部の一部を除くビタリ王国の領土はほぼトリアイナ魔道士団が掌握する形となっています」 クーリアの現状の説明を受けて、ヴァルキュリャとインテンサは現在の状況をすでに把握していると判断したカイトは最初の質問を口にした。「トリアイナ魔道士団に属する魔道士たちの配置はどうなっていますか?」 カイトに向けて首肯を返したクーリアが答える。「ゲルマニア帝国との国境に近いフエルシナには第三席次のイオタと第十一席次のボーラ。ガリア共和国との国境に近いマイラントには次席のゾンダと第九席次のカリフ。そして、聖皇国に近いメディオラヌムに第五席次のジュリエッタと第七席次のデルタ。ウアイラを始めとする他の魔道士は王都ロームルスに留まっているようです」 地中海に突き出た半島が領土の大半を占める、地球のイタリアに酷似したビタリ王国の地図をカイトは思い浮かべた。 大陸側の国境をゲルマニア帝国、ガリア共和国、ロムニア王国の三国と接しており、ウァティカヌス聖皇国を内包する領土を持つビタリ王国にあって、周辺の各国への警戒を顕示するなら妥当な配置なんだろうとカイトは思った。 ロムニア王国には魔教士以上の魔道士が不在な上に、停戦協定が結ばれたとはいえセナート帝国への警戒を解けない現状では、ビタリ王国に対して何かしらの行動を起こす余裕はないものとして協議には上が
翌日の昼前。肌を冷やす淋しさをいっとき忘れさせてくれるような心地好い日差しがそそぐプログレの港には、聖皇からの指名を受けて刑の執行人として出立しようとするカイトたちの姿があった。 聖皇の使者としてミズガルズ王国を訪れたヴェネーノは、カイトたちより先に汽船への乗船を済ませていた。 ビタリ王国の王位を簒奪したウアイラと、クーデターの主体となったトリアイナ魔道士団への断罪を裁定した聖皇の意思を代行する執行人という特異な任務に当たる渡航とあって、カイトら四人の出立を見送るのはレビンとステラ、そしてノンノの三人のみだった。 少数とはいえ筆頭魔道士団の威を示す純白の軍服を身に纏う魔道士たちの存在は充分に目立っており、七人を遠巻きにする港で働く人々の注目を集めていた。「さくっと終わらせて還ってくるんだよ」 ノンノがいつもの調子で声をかけると、カイトは調子を合わせるように軽い調子で応じた。「うん。そうするよ」「ピリカをお願いね」 ノンノが浮かべる快活な笑みに、わずかな心配の色が差すのを見たカイトは大きくうなずいてみせた。「分かった。必ず無事に、一緒に還ってくるから」「うん。任せた」 カイトに向けて明るい笑顔をみせるノンノの横で、真剣な表情を崩さないレビンにアルテッツァが声をかけた。「王都を頼むよ」「お任せください。旅の無事とご武運を祈っております」「ああ、武勲を立てて王都に戻るとしよう」「はい。凱旋の日を楽しみにしております」 微笑を浮かべて壮行を口にするレビンへ向けて、アルテッツァは力強い首肯を返した。 カイトに随行するアルテッツァ、セリカ、ピリカの三人と、ヴェネーノを乗せた汽船は予定通りに正午の鐘を合図に出航した。 汽船は最短の航路でウァティカヌス聖皇国を目指し、十一日後の一月二十九日には聖皇国のスペツィア港へと到着する予定となっていた。 カイトにとっては初陣の地となるであろうビタリ王国へと続く旅立ちだったが、その不安や緊張を顔には出さないように努めた。 天候にも恵まれ穏やかな船旅となった十一日の間、四人はヴェネーノも交えてポーカーに興ずるなどして時間を潰す余裕を持った空気を共有した。 一月二十九日の昼過ぎには、予定の航程を全うした汽船がウァティカヌス聖皇国のスペツィア港に入港した。 ふたたび聖皇国の地を踏むこととなったカイトに、
ビタリ王国の首席魔道士ウアイラによる王位の簒奪を受け、これを断罪する裁定を下した聖皇フィデスの署名が入った正式な刑の執行人への指名を受理。刑の執行に当たっての渡航に同行する三名の人選と、渡航の方法と日程の決定。 重大な決断と実務の処理を矢継ぎ早に行ったカイトは、深夜の帰宅から短い眠りを経て翌日も朝から王宮に赴き、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオとの事前の確認に併せて事後の方針に関する協議も済ませた。 「さすがにちょっとオーバーワークかな……」 思わずぼそっとつぶやいたカイトが屋敷へ帰る頃には、大陸からの厳しい寒気をなだめていた冬の陽もすでに傾き始めていた。 カイトが自室に戻ると、ストーリアが旅の支度を調えていた。 どの程度の滞在になるか期間のはっきりしない渡航の準備とあって、その荷物はなかなかの量にはなっている。「ただいま」 カイトが声をかけると、ストーリアは荷造りの手を止めて微笑みを返した。「おかえりなさいませ。お疲れでしょう。出立までは少しお考えにならない時間をお持ちください」 ストーリアが自然に言い添えた「考えない時間」という言葉にカイトは感心してしまった。 この異世界に来てから約四ヶ月。首席魔道士という国防を担う元帥、あるいは象徴的存在としての大元帥とも謂えてしまう立場に就いてからの約三ヶ月。未だに慣れない政治的な判断や決断を強いられてきたカイトが、いま最も欲しているのは思考から解放される時間だった。 いまの自分を一番よく分かってくれているのは、異世界にいきなり召喚された最初の長い一日からずっとそばにいてくれるストーリアなんだろうとカイトはあらためて思った。「カイト様……? どうかなさいましたか?」 少し感慨にひたる間を置いたカイトに、ストーリアが小首を傾げてみせる。「あ、いや。ストーリアはいつでも、俺が欲しい言葉をくれるなって思っただけだよ」 カイトの返答を聞いたストーリアは、荷造りのためにかがんでいた姿勢から立ち上がるとカイトをまっすぐに見つめた。「カイト様……ひとつだけ、約束していただけませんか?」「俺にできる約束なら……」 ストーリアがゆっくりとカイトのそばに寄り、その胸に自身の頭を寄せる。 カイトの心音を確認するように短い間を置いたストーリアは、頬を寄せるカイトにだけ届く声でお願いを伝えた。「必ず
翌日の昼過ぎに、聖皇の指名を受けたカイトが執行人としての渡航に同行するメンバーを探していると聞き及んだピリカが、王宮内にあるカイトの執務室を訪れた。 書類仕事を中断して応対したカイトに促されてソファに腰掛けたピリカは、向かいに座ったカイトをまっすぐに見つめて用件を口にした。「カイト卿。今回の指名を受けて、執行人として赴く卿と同行する魔道士に、あたしを加えてください。この機会をあたしは待っていたんです」 前置きを省いて本題から入ったピリカに対し、カイトはまずその動機を確認するための質問を返した。「危険を伴う任務に立候補していただき、ありがとうございます。ピリカ卿、ひとつだけ訊いてもいいでしょうか? 危険な任務の機会を「待っていた」という理由は何ですか?」「あたしは魔道士としてトワゾンドール魔道士団に席をいただき、ミズガルズ王国の男爵位もいただきました。ですが、侯爵領となったヌプリの先住民族をルーツとする出自は、決して変わるものではありません。あたしの親や親族に向けられる視線を変えるために、あたしは活躍して功をあげなくてはならない。それが理由です」 ピリカの碧い瞳に強い決意が宿っているのを感じ取ったカイトは、首肯を返してから答えた。「分かりました。今回の渡航への同行をピリカ卿にお願いします」「ありがとうございます」「いえ、礼を言うのは俺のほうです。おかげで初めての任務を受ける俺にとって最大の不安材料がなくなりました」 そう言って頭を下げるカイトを見たピリカが微笑む。「カイト卿。あたしも、ひとつ訊いてもいいですか?」「ええ、どうぞ」「親しい関係になった女性は、もういますか?」「えっ!?」 ピリカの唐突な問いに動揺したカイトの声が裏返る。同時にカイトの脳裏にはストーリアの顔が浮かんだ。「あたしでよろしければ、そちらにも立候補してよろしいですか?」「えー……と、とても魅力的な提案なんですが……」「答えは急ぎませんので、いまは立候補だけ受け取ってください。気長に待ってます」 ピリカの微笑みには裏に含んだ後ろめたさがなく、魅力的な女性だとカイトは率直に思った。 その日のうちに、カイトは聖皇の使者であるヴェネーノが滞在するホテルに赴いた。 ヴェネーノが宿泊する客室に直接通されたカイトは、すすめられるままソファに腰掛けると用件から口にした